2018年4月2日月曜日

【 歩んで舞る。】episode Nine


「ダンスバトルで黒人をぶったおす。」

とはいえ、僕の人生で最初で最後の師匠は「Jazzy J」という黒人ダンサー。

黒人を無差別に嫌悪していたわけではない。
それでは肌の色だけで差別する人々と同じ。
白人が黒人を差別し、黒人が黄色人種を差別する。
悲しくも傷を受けた者は、その傷の受けようで悲しい連鎖を生み出してしまう。

ただ、黄色人種であるということだけで馬鹿にしてくるアメリカ人を
踊りを通して見返したかっただけ。

18歳から20歳までの二年半。

それこそ狂うように練習しては、アメリカのダンスバトルに出場した。
人生で初めてダンスバトルで優勝できたのはアメリカ フロリダで開催されたダンスバトル。
この時の決勝動画が、今もなおネット上に残っていることにビックリします。
すごい時代ですね。。。もう13年前になります。


ベスト4ではエリートフォースのストレッチとバトルをした。
立場的に考えると、絶対に日本では生じない結果が生じていた。
このバトルでのジャッジは、PoppingPete•今は亡きSkeeterRabit等のPopDanceパイオニア達。
その瞬間の「リアル」をジャッジできる実力主義なオリジネーター。
今もなお深く敬意を感じる。
この優勝をきっかけに「努力は報われる。」と確信し、さらに異常なダンス修練に励む。

「完全実力主義」

そんな風潮が数十年前のアメリカにはあったと思う。

今では分からないけれど
少なからずとも「コネ」なり「営業」が大切な日本のダンスシーンよりも、
よっぽど生きやすかった。

鬼の形相で練習する日々。

そしてバトルに出場する。

そんな二年半の留学生活のなかで、確実に大きな自信が生まれると同時に
大切な「何か」を失った。

それは、踊りを「楽しむ心」だった。

戦うために踊っていた。

踊りを刀に代えて生きていた。

そういっても過言ではなかった。

根本に「怒り」が存在していた。

怒りから生まれる表現はアートには必須と言われる。
けど最近思うのは、それでは必ず限界が生じると思う。

バトルに出ては優勝するときもあるし、しないときもある。

優勝したら、それは嬉しいけれど、その瞬間に過去。

感じるのは、はかなさだった。

優勝した瞬間は、皆にリスペクトされるけれど次回負けたときにはシラーっとされる。

そのバトルの螺旋階段の行き着く先が、どんどん空しく思える。

20歳のころ日本に帰国し、
出場した国内バトルでも運が良く好成績を残せて、
アメリカでのバトル螺旋階段は日本でのバトル螺旋階段へと繋がった。

ひたすら、バトルのために練習する日々が帰国後も続く。

3年程経ち、比較する空しさが頂点に達した。

てか、俺はなんのためにダンスバトルに出場しているんだ?

かつては、ある特定の要素に向けた「怒り」から生じた「熱意」だった。

見返してやる。その想い一点だった。目は燃えていた。

けれど、きづいたらバトルに出場する背景の想いが、
「名誉」なり「金」になっているんじゃないか。

目が半ば灰となり、ある意味不純となった。

そもそも、踊りに評価って。。。おかしくない?

踊りは、スポーツではない。
踊りは、アートだ。

アートに競争価値的概念は本来、存在しない。

子供の絵に点数はつけれないように、踊りにも点数などつけれるはずがない。

なんだかダンスもオリンピックに向けてスポーツ種目に加えようという動きもあるらしいから
ハッキリ言いたい。

ダンスは、スポーツではない。

スポーツの基礎的概念は競争。

アートの基礎的概念は衝動。

ダンスは競い合うものではなく、突き動かされる衝動により生じる『身体表現』だ。

ダンスバトルならびダンスコンテストに出まくっていた僕が言うのも、、、
矛盾極まりないとは思いつつ、ただひたすらにバトルして競い合ったからこそ
到達した答えであり

同時に、その答えを全身で感じざるえない現場があった。

それは、ダンスバトルが開催されるクラブカルチャーとは対極的な舞台。

僕はもともと児童障がい者施設の出身で

幼少期、言語障害という判断を受け小学校に上がるまで施設に通っていました。

児童障がい者施設出身のダンサーということもあり、
福祉施設にパフォーマンスしに来てほしいという依頼をきっかけに
20歳から23歳までの三年間。
全国100カ所以上の福祉施設で踊ることになりました。

バトルとは対極な舞台。
福祉施設でのダンスパフォーマンス活動を通して、
踊りのあるべきスガタに触れることになります。



一舞一生 - one step , one life - 
小畑‘OBA’大左衛門

[ 歩んで舞る。]特設サイト

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